静動

美入野の名称の由来

新しい高校が「横手美入野高等学校」と命名されるに至ったことについての資料は、学校には何も残されていない。 ただ校地東側の地域は、江戸時代から「見入野新田村」として開墾された土地であり、菅江真澄の『雪の出羽路』(平鹿郡十二)の見入野新田邑には、「見入てふ地名は田畠の字にところどころに聞えたり、こはそも、田の実入良地を祝言て云ひ初し名ならんか美入野とも書く」と記している。

明治三十六年(一九〇三)七月二十日に創刊された『校友会雑誌』は、現在一〇号から一七号まで欠落しているが、その間に「みいりの」と命名されている。その時期は明治四十二年の初めから同四十四年の前期と考えられる。また昭和六年(一九三一)六月二日に発刊された三四号には、初めて「美入野」の字が当てられている。  さらにこれより以前、大正十二年(一九二三)横中創立二十五周年にあたって、山本武雄(元釧路市長、二二期)、和泉喜之助(二二期)らが作詞した団歌の中にも、「雄々しき美入野の若人」の文字が見える。これらのことから、早くから生徒たちの間では、校舎が建つ一帯の丘陵地を「みいりの」と呼び、「美入野」と書いて親しんでいたものと思われる。
戦後、昭和二十一年四月、四七・四八合併号の校友会誌が、『美入野』の名で再出発した。自由の息吹きの感じられる、みずみずしい内容をもつものであった。学制改革にあたって本校が「横手美入野高等学校」という校名を称することになったことの背景には、終戦後のもやもやした気分を一新し、かつての校誌『美入野』名称に重ねて、横手中学校の伝統を継承しつつ、若人が大空を自由に羽ばたくようにとの願いがこめられていたものと考えられる。校名の由来については、女子一期生で五〇期の原義子(旧姓戸村)が、『北のかたりべ』六号に、父親である戸村義廉と当時の学校長高橋一郎との二人で決めたことを述べている。
ところで、今は見入野という町名になっていますが、そのあたりは、昔みな原野で、村民がこぞって田畑にしたという話が残っています。たくさん「実る」ようにと「実が入る」よう願いをこめて「実入野」という村名だったのでした。

ところが「美入野」を「美人野」と書く人がいたとか。そして、また女学校と間違う輩も出てきて、後に「県立横手高校」と校名を改め、「美入野」ということばは同窓会に付けられました。
校名が新しくなった昭和二十三年はまた、本校創立五〇周年の記念すべき年にも当っており、それを記念する式典や行事が盛大に行われた。それは、新しく出発した横手美入野高等学校の今後の発展をお互いが確認しあう意味をもつものでもあった。

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